≪ワイキキの三貴婦人の話≫
 
 1899年、ハワイ共和国大統領サンフォードドールが、ハワイを米国に合併するのに成功した。それから三年後の1901年に、様式の本格的ホテル「モアナ・ホテル」がワイキキに建設され、1907年には、現在の「ハレクラニ・ホテル」の前身である「ハウ・イン」が創立された。
  それまでハワイを訪れる旅行者は、ホノルルの中心街に宿をとり、ワイキキまで馬車で海水浴や避暑にやってきた。しかし、このワイキキの浜辺にモアナ・ホテルやハウ・インが登場したので、旅行客は、海辺に宿泊することができるようになった。これが海浜型リゾートの原型の誕生であった。美術的なきらびやかな装飾を凝らしたこのホテルは、以後、ハワイで最も格式の高いホテルとしてワイキキに君臨してきた。
  1927年2月1日、かつてのカメハメハ王たちの別荘地があったワイキキの中心に半スペイン風モアー的な、外観をピンクに塗装した異様なホテルで「ピンクパレス」と呼ばれたホテルが開業した。これが、「ロイヤルハワイアンホテル」で、有名なカクテル「マイタイ」が生まれた。ラム・ベースにオレンジジュースを加えた「マイタイ」とはタヒチ語で「楽園」という意味だそうである。この贅沢極まるホテルは、二つのステージをもつ劇場、宴会場、映画館などを完備していた。
  1929年、モアナ・ホテルの宿泊料は一泊8ドルであったが、ロイヤル・ハワイアン・ホテルの宿泊料は、同程度の部屋が一泊14ドルであった。この当時ハワイの平均月収が約25ドルであったから、これらのホテルの宿泊料が大変な金額であったことが想像される。これらの浜辺のホテルの出現により、ハワイは世界的観光地として出発していった。
  観光客が期待するワイキキの楽しみは、黄昏よりはじまるハワイ式夕食「ルアウ」とそれに続くフラとハワイ音楽のハワイアンショーであった。当時の観光客はゆとりある旅行を楽しみ、平均四週間から六週間ハワイに滞在し、ロイヤル・ハワイアン・ホテルの1929年の宿泊者は、22,000人にも達していた。
  このように順調に出発したワイキキも、1929年のウオール街の経済大恐慌により、1930年には同ホテルの旅客が18,000人まで激減した。以後、米国の経済状態は、ルーズベルトの政策によっても回復せず、ハワイの観光客数の停滞も世界大戦勃発まで続いた。
  日本海軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まり、ハワイへの一般観光旅行は、いっさい禁止された。日本軍の上陸に備えるために、ワイキキの海岸に鉄条網が敷説され、カラカウア通りに戦車が行き交うようになった。そして、ホテルは一時軍部に接収された。
  戦後、これらのホテルでは、激しいニューヨークやサンフランシスコの生活のストレスから逃れ、ノスタルジアを静かに味わう昔からの顧客が、海を眺めつつすばらしいブレックファーストをゆっくりと味わっていた。その後、ワイキキには現在ようなホテルが乱立して都会化してしまい、三つのホテルは新しいホテルに圧迫され経済的な破綻に追いやれたが、賢明な日本人実業家たちによりホテルは購入され、莫大な予算を費やしてむかしのエレガンスを回復するように改装された。
 静かな朝、浜辺を散歩して、海を眺めながらすばらしい朝食を味わうのはこの三つのホテルしかないといえよう。テーブルによってくる小雀さえも昔のままである。

集英社「ハワイ・マナ」(中野次郎著)より


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